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画面のこちら側

取り敢えず色々手を出してみる

今だからこそ言いたいnarcissuの魅力と感謝 -narcissuの感想みたいななにか-

フリーゲーム narcissu

みなさんは「narcissu」というノベルゲームをご存知だろうか。プレイしたことがあるだろうか。

narcissuは2005年にステージ☆ななが作成したフリーゲームだ。2007年には「narcissu Side 2nd」が制作され、2009年には「narcissu 3rd - Die Dritte welt-」が発売された。2008年にはMF文庫Jからノベライズ版が、2010年にはアライブコミックスからコミカライズ版がそれぞれ発売され、2012年にはホビックスよりPSP移植版が発売された。ファンによる英語・中国語・韓国語・タイ語翻訳版もあり、2007年には舞台化もされた。2014年4月にはPCゲームのプラットフォームであるsteamにて英語・日本語版が公開された。

そして、2015年にはAgilisさんを中心にSekai Projectによる「narcissu 10th Annivesary Project」がKickstarterで募集が始まり、「姫子エピローグ」、「ナルキッソス0(PSP版のナルキ4)」、「小さなイリス」、そして、同年に発売された新作の「ナルキッソス スミレ」が英語翻訳版としてsteamで販売された(また、PS4PSVITAにて発売が計画されているようだが、これらは北米版のみとなるのではないかと言われている)。

そう、narcissuが今再び注目されようとしているのだ。今しかないのだ。narcissuについて気持ち悪い熱い想いを語れるのは。

 

narcissuシリーズ紹介

 さて、本題(?)に入る前にnarcissuシリーズを整理しておこうと思う。あらすじと一部所感を書いていくが、私の文章力を笑いながら読んで欲しい。

narcissu

2005年に発表された記念すべき第一作。PC向けのフリーゲームであり、Nscripterという言語エンジンで作成されている(そのため、やろうと思えばAndroid端末でもできる)。

narcissuホスピスを舞台にしている。2005年冬、主人公は通称「7F」と呼ばれるホスピスに入ることになる。そこで出会った一人の少女。ーー血液型O、名前はセツミ、ビニールの認識腕輪は白。まるで達観しているかのような彼女。主人公が何を話しても素っ気ない。そんな彼女がふと言う。私は7Fも家も嫌。その言葉が引っかかていた主人公だが、父親が忘れていった車のキーを見た時、とっさにそれを掴んでいた。そして、セツミと2人、7Fから飛び出した――。
ナルキ1はざっと書けばこんな感じの物語だ。CVありとなしの2バージョンをプレイできるが、CVがあるのはセツミのみ。

narcissu Side 2nd

ナルキ1の思わぬ人気を得て2007年に作成された 第二作。ナルキ1を同梱しているので、新しく始める方はナルキ2をDLすれば問題はない。

ナルキ2はナルキ1の過去話となっており、セツミが7Fの住人になる前のお話である。1999年夏、セツミは通院先の病院で一人の女性に声をかけられる。姫子と名乗るその女性に半ば強引に7Fに連れて行かれ、良くわからないまま友達となる。7Fに通い始めたセツミは姫子から、「死ぬまでにやってみたい10のこと」の手伝いをしてほしいと頼まれる。

ナルキ2は大体このような物語である。ナルキ2は姫子(とセツミ)の物語であるが、セツミと姫子、姫子の妹である千尋とのやりとりにセツミの原点を垣間見ることができる。ナルキ1と同様にCVありとなしの2バージョンをプレイできるが、ナルキ2ではセツミ以外にも姫子、千尋、優花、女の子、そしてセツミ母にもCVがついた。また、イメージイラストがぴんさいず(MITAONSYA)さんからごとPさんに変わった。ナルキのイメージイラストはごとPさんが描いたものが最も多いので、誰もが想像するセツミが観られる。

ノベライズ版narcissu

2008年にMF文庫Jから刊行された。ナルキ1のノベライズであるが、加筆修正が行われている。旅の途中で老人宅に泊まる様子やコインランドリーでの描写に道徳的な配慮がされている。また、優花が再登場したりセツミ母の出番が大幅に増加する。そして、新キャラとして蒔絵さんなるナースが登場する。

原作者の片岡ともさんが書いているが、ノベルゲーム的な表現が多く(体言止めなど)、ノベルとしては読み辛い。また、PC版とは毛色が違うので、PC版から入った人、ノベライズ版から入った人で、多少の壁を感じるでのはとも思っている。特にノベライズ版から入った人には優花さんの登場には感動しないのではないだろうか。

narcissu 3rd - Die Dritte welt-

2009年に1500円で販売された第三作。シナリオライターが異なる4作品からなるオムニバス形式となっている。ゲーム画像が拡大し前作までの映画のような画面ではなくなったり、キャラクターデザインが緒方剛志さんに変更され、立ち絵も大幅に増加しているなど、ナルキ1,2とは趣がかなり異なっている。そのため、違和感を覚える人も少なくはない。

死神の花嫁

シナリオはごぉさん。外科(記憶が曖昧なので違うかも)に勤める主人公と同じ病院に勤める看護師の彼女を主軸に物語が進む。彼氏は優秀な医者であり、彼女も白衣の天使と称される人気者。彼女は患者からの信頼も高く、男性医師からの人気もある。また、同性の看護師からも頼りにされるなど非の打ち所がない。明るい性格の彼女だが、本心では看護師という仕事に疑問を思っていた。同時に彼も過去の医療経験から医師として、仕事を全うすることができなくなっていた。それぞれ翳りを抱きながらも同棲生活を始める二人だが、その矢先彼女が倒れ入院してしまう。

ナルキシリーズで唯一選択肢があり、二つのエンドが用意されている。ナルキ3の中で最もナルキらしい作品ではないかと思っている。要するに私がオムニバスの(シナリオが片岡ともさんではない)三作品の中で唯一面白いと思っているお話である。

- Ci - シーラスの高さへ

シナリオは酸橙ひびきさん。普通に生きていくために自分を演じ続けている二人の少年少女が主人公のお話……なのだが、申し訳ないことに何にも覚えていない。失礼を承知で書くが、もっともつまらなかったからだ。ただ、「シーラスの高さ」という科白及びタイトルは良かったと思った記憶がある。

メサイア

シナリオは早狩武志さん。問題児であり女たらしの男性患者(ワイルド系イケメン)とその担当医(良く言えば優男)の友情をテーマにしたお話。担当医は余命幾ばくもないこともあって、好き勝手やる男性患者に真摯に接し、徐々に距離を狭めていく。あまり遊びをしない担当医だが、男性患者とツーリングや温泉を通して、単に患者と医者という関係ではない、友人に彼らはなる。

その最後にはナルキ3に否定的な私もちょっと心にきた。ナルキとのクロスオーバー要素もあり、セツミと千尋さんが登場する。千尋さん大好きな私は担当医が(彼女の持ちのくせに)千尋さんをナンパしようとした時にはとてつもない怒りを覚えた。

小さなイリス

シナリオは片岡ともさん。舞台は中世であり、とある小国の第二皇女であるイリスは政治の道具として育てられ、政略結婚をさせられる。嫁いだ国では人質と言う名の王女として扱われるが、初めて自由な暮らしを体験する。だが、母国との戦争が始まることでその暮らしも終わる。イリスは幽閉され功を焦った兵士が殺しに来る日々を送る。生きるために人を殺すことしかできなかったイリスは次第に変わっていく。

生きるために人を殺すイリスと死ぬために人を殺すヨハン。人を殺すことしか知らない一人の男と、一人の小女が、夜の闇を彷徨っていく。小さなイリスは考えた。時折、挟まれるこの科白が悲しさを誘う名作である。

コミカライズ版narcissu

月刊コミックアライブに2009年から江戸屋ぽちさんにより連載された。申し訳ないことに、私は1巻しか読んでない。コミカライズ版は恋愛要素が強調されており、それはナルキではないと私は考えているからだ。だが、未読なのは良くないとも思っているので、最終巻も機会を見つけて読んでみようとは思っている。

ナルキッソス〜もしも明日があるなら〜 Portable

2012年にはホビックスより発売された。内容はナルキ1~3のリメイク、そしてナルキ4である。DX版には聖地巡礼マップ(裏面はセツミのポスター)、オフィシャルブック(設定画集や「死神の花嫁」主人公の過去編などが掲載)、予約特典として携帯クリーナーがあった。ナルキ3と同様にゲーム画像が拡大しPC版のように映画のような画面ではなくなったり、キャラクターデザインが緒方剛志さんに変更され、立ち絵も大幅に増加している。また、主人公の男性キャラにもCVが付いた(設定でONOFFが可能)。UMDディスクのロード音と科白が被ってしまい、聞き取れない科白があったり、ロードに時間がかかるなどPSPならではの問題もある。

第1章  銀のクーペ

ナルキ1のリメイク。PC版ではなく、MF文庫J版を元にしている。そのため、優花さんや蒔絵さんが登場する。男性キャラにCVが付いたことや新キャラ(MF文庫J版で登場していたとは言え)の登場もあり、セツミ母の科白にもCVが付いた(ナルキ2で既に付いていたが)。

第2章 赤いロードスター

ナルキ2のリメイク。こちらはストーリーに変更はなかったと記憶している。

最終章 DOUGHNUT

ナルキシリーズの最終章にして原点。70年代、終末医療も老人介護もまだなかった時代。一家で老人ホームを営んでいた蒔絵家の長男博史は自身の留年をきっかけに日下陽子と知り合う。身体が弱く休みがちだった陽子だったが、博史との出会いや交換日記、老人ホームの手伝いを経て明るくなっていく。陽子はもともと医者になるのが夢であったが、老人ホームの手伝いを通して、老人ホームに医者として常駐することを目指す。博史も陽子と別々の学校に行く未来が想像できず、同じように国立医大を目指すこととなった。しかし、身体が弱く休みがちだった陽子は再び留年し、博史一人だけが上京することなった。上京当日、駅までお見送りに来た陽子に博史は一年後に必ず来い、待ってるからなと約束をするが、陽子はどこか寂しげだった。そんな陽子の様子が気がかりであった博史だがーー。

7Fふぁ、ルールはどうしてできたのか。ナルキの原点を語るのがナルキ4である。ちなみに主人公の蒔絵博史はMF文庫J版に登場した蒔絵さんの父。学校をサボってた不良みたいな少年が国立医大に受かり、医局長や院長を歴任するのは凄いと思う。余談であるが陽子は片岡ともさんが好きそうなキャラである。

外伝 Die Dritte Welt

ナルキ3のリメイク。ぼくはナルキ3をこのPSP版でプレイしたので、ナルキ3とどう違うかわ分からない。

エピローグ

蒔絵素子(蒔絵さん)、篠原姫子、阿東優(ナルキ1の主人公)、そしてナルキッソスのエピローグがある。

蒔絵さんのEPはナルキ1の一年後の物語であり、セツミ母との交流を描いている。蒔絵さんが優しくいい娘であり、蒔絵さんがいない世界であったら、セツミ母はどうなっていたのだろうかと不安になる。EP阿東優はPC版ナルキ2のおまけであったエピローグを元に優花さんのシーンが追加されている。姫子EPは姫子さんと優花さんのお話が中心である。去る者として残す者へ魔法をかける姫子さんと親友である優花さんのやりとりは辛く悲しい。姫子EPをプレイするとその後の優花さん(特に後述のスミレ)を観るだけで泣けてくる。最後のセツミと千尋さんのやりとりも秀逸である。素晴らしいエピローグだ。EPナルキッソスはナルキ1~3の登場人物たちがルールにどんなことを付け加えたかを書いてるのだが、あまりの酷さに怒りが収まらなかった。PSP版ナルキの最後がこれではあまりにもすぎる。

steam版narcissu

2014年にSekaiProjectによりsteamから配信された。ナルキ1,2がプレイできる。PC版同様無料でき、実績機能にも対応している。PC版の英語版を完全移籍した形となっており、プロダクトも英語しか載っていない(ちゃんとサウンドモードも移植されている!)。そのため、日本語話者はプロダクトを読むためにもPC版をプレイしてもいいかもしれない。もちろん、本編は日本語版があるし、ボイスも日本語であるが、英語版を元にしているため、英語版のテキストが表示される箇所が1箇所ある。ちなみに、PC版ナルキ1にはなかったセツミ母にボイスがついてる(恐らくPSP版の音声ファイルを使っている)。

ナルキッソス -スミレ-

2015年に発売されたナルキ最新作にして最後の作品(多分)。ねこねこソフト15周年記念アダルトゲーム「すみれ」のヒロインあかりが登場するため、あかりを紹介するあかりパートと本編であるスミレパートの二部からなる。

交差点の曲がる方向をちょっと間違えたことで〝迷子〟になり引きこもりとなったスミレ。ただただゲームをすることしかできなかったが、きっといつか自分にもできることが見つかる日が来ると漠然と思っていた。ある日、7F行きを告げられ、その日が永遠に来ないと知った。突然優しくなる両親や兄を見て、自分は迷子のまま、なにもできず終わると思うと申し訳なくて仕様がなかった。そんな時、以前公園であったあかりと再開する。あかりはあかりで〝迷子〟であったが、目を閉ざした世界に生きると決めた手前、誰にも貸し借りは作らないと決めていた。そんなあかりだが優花と出会ったことをきっかけに7Fと通っていた。スミレはあかりと出会うことで、あかりは優花と、そしてスミレと出会うことで変わっていく。同じ〝迷子〟になった者同士ーー。

ナルキスミレはナルキ1と2の間の物語である。ナルキスミレはナルキ2を匂わせる。ナルキ2で姫子が選んだ答え、ナルキスミレでスミレが選んだ答え。そして、ナルキ1でセツミが選んだ答え。そのどれをとっても眩しくあり、そのどれをとってもnarcissuなのだ。あと、これは本編には関係ないことだが、あかりのCVが姫子さんと同じ人(やなせなつみさん)であり、優花さんとあかりが会話してるだけで泣いてしまう。

narcissu 10th Annivesary Project

2015年よりsteamで順次配信が始まったSekaiProjectさんによる翻訳版。ごとPさんによる新規絵が少しある。起動するとメインソフトが開き、そこからプレイしたい章を選択すると、選択された章のゲームソフトが起動する仕組みとなっている。メインソフトの背景画像が素晴らしいのでとても欲しい。なお、実績機能には対応していない。

姫子エピローグ

PSP版のEP~篠原姫子~の移植版。ノベルモードという無理矢理画像サイズをPC版版のようにしたモードも搭載されいている(他のエピソードも同様)。内容自体はPSP版と変わらないが、ノベルモードをプレイするとあとがき(書き下ろし)とねこねこソフトのアダルトゲーム「ラムネ」のスタッフルームに収録されていた「1980」がプレイできるようになる。1980は片岡ともさんの自伝的お話であり、narcissuの元となったお話とも言われている。この1980をプレイするだけでもnarcissu 10th Annivesary Projectを購入する価値がある。

ナルキッソスゼロ

PSP版のナルキ4の移植版。あとがきにてセツミ死後の博史とセツミ母のやりとりが読める。PSP版のEP蒔絵素子のお話に繋がる内容である。PSP版のEP~阿東優~に相当するお話も入っている。

小さなイリス

ナルキ3の同名エピソードの移植版。steam版のどれもそうであるが、英語版を元に作成されている。そのためか、一箇所未翻訳箇所がある。あとがきで1980の続編的お話である「1993」がプレイできる。これも1980と同様、片岡ともさんの自伝的お話であり、narcissuの元となったお話とも言われている。

ナルキッソススミレ

同名ソフトの移植版。時間に追われていたためか、意味不明なテキストが挿入されていたり、音楽が不自然にループしたりしてフリーズすることもある(なお、音楽ファイルの不調は小さなイリスなどでも見られた)。おまけとして、ナルキシリーズの簡単な紹介及びまとめがある。

 

以上がナルキシリーズの全てである。他にもコミックマーケットでファンブックやドラマCDが販売されてはいるが、それはそこまで関係がないので今回は省略した。ぼく自身の文才のなさや記憶の欠如からこんなんで分かるかよと思う人もいるだろうが、申し訳ないが許して欲しい。

 

narcissuの魅力

narcissuは「死」をテーマにしたゲームであり、しばしば鬱ゲーだとか言われる。そのため、賛否両論であり、いわゆる信者を生むゲームである。確かにこのゲームは人を選ぶところがある。ぼく自身も信者だと思う。だが、今回はそこには目を瞑って欲しい。数少ないチャンスなのだから。

 

さて、narcissuの良さとは何なのか。それを言葉で表すのは難しく感じる。無理矢理にでも言葉にするとすれば、それは「距離感」なのではないかと思う。登場するキャラ一人ひとりの距離感が絶妙なのだ。ナルキ1において、主人公とセツミとの間に、恋愛感情というものがなかったわけではないと思う。しかし、作中ではそれをはっきりとは感じることが出来ない。もし二人の距離がもっと近く、恋愛感情が少しでも垣間見れるようであれば、このゲームの評価はもっと違ったものであったと思う。

ナルキ1のストーリーはドイツ映画「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」に酷似していると言われている。この映画も余命幾ばくもない患者二人が、車を盗み海を見に行くという話だ。この映画の詳しい話は省くが、これも名作なので機会があれば観てもらいたい。この映画とナルキ1の一番の違いは病人の二人というのが、男性同士なのか男女なのかである。ぼくに言わせれば、ナルキ1とノッキン・オン・ヘブンズ・ドアのストーリーが酷似しているなんていうのは、はっきり言って暴論だとは思うが、今回はそこら辺の話は省こうと思う。

ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアは「死」をテーマにした作品でありながら、そこにその手の作品特有の暗さが感じられないのだ。全体を通して温かみがあり、外国映画特有のユーモアが散りばめられている。それでも、しっかりと死を描いているのである。だからこそ、ナルキ1の二人の距離感は絶妙なのだ。ナルキ1はノッキン・オン・ヘブンズ・ドアとは違い、暗さがないとは言えない。全体的に死をテーマにした作品特有の暗さが付き纏っている。だが、二人の遠いようで近い距離感は、作品の何をも邪魔していない。むしろ、この距離感こそがナルキ1の独特な雰囲気を生み出しているのである。二人の間の恋愛感情がもう少しはっきりしていたら、陳腐な恋愛譚で終わっていたのではいだろうか。物語の最後も下らないものになっていたと思う。
ぼくも数多くの物語に触れてきたが、ナルキ2ほど登場人物の距離感が絶妙なものをあまり知らない。narcissuはほとんど登場人物がいない。ナルキ1では二人、ナルキ2では五人である。ナルキ2ではこの五人の距離感が絶妙であり、誰か一人でもほんの少しでも近かったら、ナルキ2は数多あるフリーゲームの1つであっただろう。それ程までにナルキ2の距離感は完璧なのだ。時にもどかしく、時に苛立ちを感じるこの距離感がナルキ2を形作っている。

 

narcissuの良さは距離感だけではない。こっちはもっと言葉にしづらいのだが、特別感のなさとでも言えば良いのだろうか。詳細は省くが、ナルキ1では途中から淡路島を目指すことになる。こういった非日常を描いた作品では、最終的な到達地点で特別なものに触れていることが多い。その特別な何かに触れることで、死生観であったり人生観ががらっと変わる描写がしばしば描かれる。
では、narcissuはどうか。彼女らが物語終盤で見たものは、特別なものだろうか。滅多に見られないようなものだっただろうか。否である。ほんの少しの労力で簡単に見られるし、奇跡的な運がなければ見られないなんてわけでもない。だがしかし、だがしかしである。皆さんも思い出して欲しい。皆さんも自分の今までの価値観を変えるようなものに巡りあったことはあるだろう。でも、それは〝特別なもの〟だったろうか。そういう人は殆どいないのではないだろうか。人は何気ない普通のものでも、価値観や人生観を変えるような特別なものだと思えるのだ。人は何気ない日常から、大切なことを学べるのである。

数多ある物語でこういったアプローチをしている作品は少ないと思う。多くの物語では、登場人物の特別な体験・出来事を経て、読者、プレイヤーに問うてくる。それが悪いとは言わないし、だから名作にはなり得ないとは言わない。世の名作が名作たる由縁はちゃんと理由がある。だが、narcissuは違う。確かに死を意識する重篤な病気に罹ることは、ぼくらから見れば特別なことだろう。だが、彼女らにとっては日常なのだ。ぼくらはnarcissuをプレイして、彼女らの〝非日常〟を見ているのではなく、彼女らの〝日常〟を見ているのである。プレイヤーは、彼女らの日常に触れ、ぼくらは大切なものを得るのである。

病気に関わらず、死を身近に感じる物語では、日常は特別なものとして描かれることが多い。主人公達は非日常を生きていて、日常は奪われたものなのだ。主人公達にとって、過去のものであり、あこがれの対象として描かれる。何もこれはこの手の物語に限った話ではない。数多の物語では、日常は奪われるものであり、守るものとして描かれる。非日常にスポットライトが当てられることで、日常が輝いて見えるようになる。だからこそ、読者、プレイヤーは、日常の価値を高め、普通の日々に幸福を感じるのである。

narcissuで描かれる日常は違う。narcissuで言う日常とは、生まれてから死ぬまでの全てである。健康ではないから、今までと同じ生活を送れなくなったから、日常が非日常になるわけではないことが、narcissuでは描かれている。日々の繰り返しが既に日常なのである。

ぼくのつたない文章では、なかなか伝わらないかもしれないが、この日常観が本当に上手く描かれているのである。読者、プレイヤーにとって非日常なものを、登場人物の日常として描くのはとても難しい。現代の日本を舞台にしているのなら、なおのことである。narcissuからは、彼女らの日常を感じることができ、それが彼女らの〝生〟を浮かび上がらせているのだ。末期患者から漂う死の匂いの中に、はっきりと彼女らが生きていることが見えるのである。

では、narcissuでの非日常とは何のか。それは、旅である。ナルキ1では淡路島に、ナルキ2では富士山に行く。病院や病気が彼女らの日常であるのに対し、旅にでることは非日常である。ぼくらにとって旅にでることは非日常と言うほど大げさなものではないだろう。だが、narcissuでは非日常なのだ。それは、narcissuでの日常と非日常が、意識の差であるからだ。narcissuで描かれる非日常の先に彼女らが見たものは、特別なものではない。寧ろそれまでの日常にあったものだ。だが、彼女らはそれに気がついてはいなかった。非日常を経験して、初めてその存在に気がついたのである。
だが、非日常も日常の一部なのである。非日常を経験したからといって、それまでの日常は無価値にはならないし、非日常は無駄なことではないのだ。非日常も日常を等しく尊いのである。これこそ、narcissuの真骨頂である。あくまでもnarcissuの非日常は、〝普段とは違う日常〟であり、日常はそれまでのいかなるものも受け入れていくもであり、過去が無価値になることはないのだ。

narcissuでの日常観はナルキ3,4やスミレでも受け継がれている。narcissuの日常観は死生観に結びついており、ナルキ3,4やスミレではそれらが如実に描かれている。

イリスやヨハンの日常は「人を殺す」ことであった。では、非日常はなんだったのか。旅か。ぼくはそうではないと思っている。相手である。イリスはヨハンと、ヨハンはイリスと行動をともにすることが非日常だったのである。イリスはカメオを捨てられたことで、日常は非日常となり非日常は日常となった。ヨハンは妹を殺すことで、日常は非日常となり非日常は日常となった。二人は失った非日常を捨て去りたかったのではないか。生きるために、死ぬために人を殺す道を選ぶことで。

narcissuの日常観は徹底している。非日常も日常の一部なのだ。非日常を経験したからといって、それまでの日常は無価値にはならないし、非日常は無駄なことではないのだ。非日常も日常を等しく尊いのである。非日常も繰り返されることで日常になり、日常は数多の非日常で構成される。二人は似たような境遇を持つ者と出会うことで、それに気付く。

人との出会いが非日常であり、それが日常となるという点では小さなイリスとナルキスミレは似ている。あかりとスミレ。彼女たちは引きこもりを〝迷子〟だと称している。そういう意味では、彼女たちの非日常は人生そのものであり、二人に日常はなかったとも言える。スミレが残したかった〝生きた証〟とは彼女の〝日常〟に他ならない。彼女は自分が迷子であったから、非日常が日常を構成するとは思っていなかった。だが、彼女はあかり(やセツミ)と出会うことで、そうではないと気づけたのだ。彼女が旅の先に辿り着いた風穴洞で使った魔法。それこそがnarcissuの日常観を示している。

魔法はスミレではなくあかりにかけられた。姫子ではなく優花に、千尋に、セツミにかけられた。魔法をかけられた者は日常と非日常を生きている。だから、彼女らは日常を生きていない。一足先に日常を得た者は彼女らに魔法をかける。非日常を日常を生きて欲しいからだ。スミレも姫子も嘗ては日常を生きていなかった。非日常が日常を構成するとは思っていなかった。だからこそ、魔法は結構効くのだ。

 

最後に

最後になるが、narcissuの作者でステージ☆ななの代表者である片岡とも氏の18禁ゲームに対する考えを紹介したいと思う。片岡とも氏は、アダルトゲームメーカーのねこねこソフトシナリオライターを務めている。そんな彼だが、大人でなければ共感できない話も18禁ゲームと扱って良いのではないかと言う考えを持っている。ねこねこソフト作製の「120円の冬」は、そんな彼の考えの下制作されたものだ。ぼくはnarcissuもそういった作品の一つだと思う。もし、読者の皆さんの中に、未成年者の方がいれば、大人になってからnarcissuをもう一度プレイしてみて欲しい。恐らく、また違った風に見えるはずだ。

 

頭に思い浮かんだことを何も考えずに書いてしまったため、雑多な感じになってしまい、かなり読み辛かったと思う。その点については、本当に申し訳なく思っている。ただ、この文章を読んでよく分からなかった人も、これだけは覚えていて欲しい。セツミの「眩しかった日のこと、そんな冬の日のこと」という科白にnarcissuの全てが詰まっている。だらだらと書いてきたが、これがnarcissuである。

参考

http://stage-nana.sakura.ne.jp/

ステージ☆ななのホームページ。ナルキ2(ナルキ1同梱)がDLできるほか、コミックマーケット情報やナルキ等のsteamページのリンクがある。

 

www.kickstarter.com

narcissu 10th Annivesary ProjectのKickstarterページ。ナルキやSekaiProjectの概要が書いてある他、片岡ともさんの顔写真が観られる