画面のこちら側

取り敢えず色々手を出してみる

私的10年代アイドルアニメ論

もともとこの記事は、私のTumblrに投稿したものである。あれを書いてから、「アイドルマスターシンデレラガールズ」が放送を開始したこともあり、私なりに気に食わない点を修正して、もう一度投稿しようと思い、この記事を書いた。Tumblrでなくはてなブログに投稿したのには、それといった理由はなく、はてなブログを使ってみたかった。それだけである。

 

地元ではアニメがほとんど放送されてなかったこともあり、私は大学生になるまで、アニメというのをほとんど観たことがなかった。しかし、気づけば友だちの洗脳の甲斐もあり、今では数多くのアニメを観ている現状だ。ただそれでも、アニメを観始めてたった4年である。これから書くのは、あくまでも〝新参〟の個人的な意見、つまり戯言である。そこら辺を踏まえて、大きな心で読んでいただきたい。

ラブライブ!」はアイドルアニメか

μ'sはアイドルであるが、ラブライブ!はアイドルアニメではない。これが私の持論であるが、中々納得してもらえない。一言でもこれを言えば、避難の雨あられである。そもそも、アイドルアニメとは何なのか。アイドルが出ていれば、アイドルアニメなのか。私は違うと思う。劇中において、アイドルが「手段」ではなく「目的」である。端的に言えば、これがアイドルアニメの十分条件だと思う。
このことを踏まえてもらえば、前述の持論も少しは理解してもらえると思う。彼女らにとってアイドルは手段であったからだ。彼女らはあくまでも廃校の危機を救うためにアイドルになったのであり、アイドルになりたいという夢があったわけではない(例外もいるが)。このことは非常に大きいと思っている。劇中では〝アイドル〟としての彼女らはほとんど描かかれていなかった。多くは〝音ノ木坂学院生〟としての彼女らだ。スクールアイドルなのだから、当たり前ではないかと思うかもしれない。だが、これはラブライブ!ラブライブ!たる所以であると同時に、ラブライブ!がアイドルアニメではないことの証明なのである。
学生でありながらアイドルというのは、アイドルアニメではよくあることだ。2次元アイドルに限らず、現実のアイドルでも普通のことであるから、当たり前と言えば当たり前である。学生アイドルであることの弊害。これは数多のアイドルアニメでも描かれている。だが、特定の学校の生徒であることに言及したものはなかったと思う。だが、ラブライブ!は違う。彼女らは学生アイドルではなく、〝音ノ木坂学院生アイドル〟なのだ。だからこそ、物語の中心は音ノ木坂学院になるのである。アイドルが目的ではなく手段であったからこそ、音ノ木坂学院生としての一面が強くなるのではないか。
私は彼女らにとってアイドルが手段であったからこそ、2期11話での結論に至ったと考えている。彼女らにとって大切なのはμ'sというアイドルではなく。音ノ木坂学院のμ'sなのである。9人でのμ'sでなければならないというのなら、他にやりようがあったはずだ。だが、彼女らはその道を選ばなかったし、その方法は描かれなかった。それはラブライブ!において、音ノ木坂学院で過ごした日々が大切であることの何よりの証明ではないだろうか。スクールアイドルのμ'sではなく、音ノ木坂学院生のμ's。これがラブライブ!である。スクールアイドルが主人公のアイドルアニメではなく、スクールアイドルが主人公の学園もの。これがラブライブ!をカテゴリ分けしたときに、最もしっくりくる言葉ではないだろうか。少なくとも私はそう思っている。

WUG! の問題点

「Wake Up,Gilrs!」を初めて見たのは劇場版「Wake Up,Gils! 7人のアイドル」の試写会であった。この日のことはよく覚えている。試写会終了後、私は怒りに震えていた。過度なパンチラシーン。これが全てだったと思う。WUG!はこれで有名になり、これで叩かれる運命となった。監督がヤマカンであることは、あの時点ではそこまで問題ではなかったはずだ。私はWUG!に嵌った現在でも、あれは許せていない。やっぱりするべきではなかったと思っている。
監督がヤマカンであることに加え、劇場版の過度なパンチラシーンで、アニメ視聴者は放送前からWUG!に失敗作の烙印を押した。放送が始まっても、それは変わらなかった。所詮ヤマカンアニメ、所詮パンチラアニメといった状況で、内容など関係がなかった。それらに引っ張られて、WUG!はまともに観られていなかったと思っている。
はっきり言ってしまえば、私はWUG!の信者であろう。試写会終了後では想像だにしなかったが、TVシリーズを経て現在では立派な信者である。だが、手拍子で褒めているわけではない。やはり叩かれる部分もあり、それから目を背けることはできない。例えば、前述の過度なパンチラだ。これは叩かれても文句は言えないのではないかと思う。劇場版のライブシーンのパンチラ。あれにはどんな意図があったのだろうか。彼女らの必死さを表したかったのかもしれない。だが、過度なパンチラのおかげで本質からずれてしまってた。視聴者はあのシーンからはパンチラしか感じ取らなかったはずだ。どんな大義名分であろうと、あのパンチラの前では掠れてしまうだろう。それでは本末転倒ではないか。WUG!におけるライブシーンは特殊だ。キャストが実際に踊ったものを撮影し、そこからアニメに起こすという手法を用いている。そのことは、WUG!の売りの一つであったはずだ。それもあのパンチラで台無しである。
他にもTVシリーズにおける作画などがあるが、それよりも私はキャラ設定のぶれが凄く気になっている。劇場版のデビューライブの直前に、久海菜々美は緊張しいであるということが明かされた。久海菜々美が緊張しいというのは、意外な設定でありとても印象に残っていた。しかし、TVシリーズにおいて、その設定は活かされるどころか、触れられることはなかった。これ以外にもそれまでの設定がなかったことになることが多かった。なかったことになるというよりは、あったことを忘れているという感じかもしれない。好意的に考えれば、キャラ設定のぶれは尺の都合があるかもしれない。
そもそも、前日譚である劇場版もTVシリーズに組み込むはずだったが、尺の都合で劇場版にしたという経緯がある。それでも、TVシリーズからは尺が足りない印象を受ける。しっかりと描かかなければならない部分が描けていない。そんな印象を受けた。その印象を最も強く受けたのは、8話と10話だ。8話は所謂ななみん回であり、久海菜々美を描いた話だ。久海菜々美には光塚に入るという夢がある。8話ではWUG!を止めて光塚受験に向かうということがこの話では描かれた。結局は光塚受験よりもWUG!を優先することになるのが、ここらへんの決意の理由はなあなあとなった。9話の終わりにて、突然光塚受験を諦めるというシーンが唐突に描かれた。これが尺の都合でなくてなんなのか。前述のキャラ設定もそうだが、TVシリーズにおいて久海菜々美は不遇であったと思う。

WUG! におけるI-1club

長々とWUG!の悪い点を書いてきたが、改めて言うが私はWUG!の信者である。では、WUG!の良さとは何なのか。私は〝超えられない壁の存在〟であると思う。アイドルアニメに限らず、ライバルや目標となる存在は、物語において重要である。ストーリーのない所謂日常系アニメと呼ばれるものでなければ、必ずこれらのキャラは出てくることだろう。「THE IDOLM@STER」では961プロ、「アイカツ!」では神崎美月がそれに当たるだろう。アイマスアイカツ!もそうであるが、物語の終盤では主人公はライバルや目標となる存在を超えることになる。
では、WUG!はどうだったか。WUG!におけるそれは、I-1clubだ。TVシリーズも後半になれば、WUG!の打倒I-1clubの構図は色濃くなる。結局WUG!はアイドルの祭典で優勝すること無く、物語に幕を閉じた。だが、仮にアイドルの祭典で優勝したとして、I-1clubに追いついたと言えるのだろうか。WUG!の世界において、I-1clubの存在は圧倒的である。元I-1clubの島田真夢を通して、それは否応なしに伝わってくる。TVシリーズ最終話で、WUG!は大手レコード会社から連絡を受ける。これは、物語の中において、WUG!の知名度及び期待度が高まったことを示している。ではこれは、I-1clubに追いついたと言っていいのか。そうではないと思う。スタートラインに立ったにすぎない。劇場版とTVシリーズ12話分を通して、I-1clubと同じ土俵に漸く立てたのだ。WUG!ではI-1clubに勝たせなかったのだ。超えられない壁としてのI-1club。これこそが、WUG!の良さであり、WUG!がWUG!たる所以であろう。では、劇場版及びTVシリーズでの彼女らの努力は無駄だったのだろうか。そうではない。勝てなかったからこそ、彼女らの努力に意味があるのだ。

アイマスという存在

近年のアイドルアニメとして、アイマスを避けて通ることはできないだろう。私が友人にWUG!の素晴らしさを語る度に、アイマスを観てないからそんなことを言えるのだと言われ続けた。これを書く数ヶ月前、漸くアイマスを観た。最初に感想を言うと中弛みはあるが、非常に面白かった。だが、WUG!と比較してどちらがという話ではない。WUG!にはWUG!の、アイマスにはアイマスの良さがある。
アイマスの良さは何か。こう問われて、私がぱっと思いつくのは二つある。一つは天海春香の科白である「後ろの席までちゃーんと見えてるからねー」だ。この科白が初めて出たのは、何話だっただろうか。11話か12話だったと記憶している。私はこの科白を聞いた時、鳥肌が立ったのを覚えている。それぐらい、この科白のインパクトは大きかった。この科白は、彼女が子供の頃に好きだったアイドルの科白である。彼女はアイドルになり、ステージでこの科白を言うことが夢であるとも語っていた。彼女はこの科白を通してアイドルを見て、この科白を通してアイドルを見せようとしている。アイマスで描かれるアイドルがどういうものであるか。この短い科白にはそれが詰まっているのである。
1クール目終盤では星井美希が、2クール中盤では如月千早が、終盤では天海春香が壁にぶつかり、立ち止まることになる。壁にぶつかる。他のアイドルアニメでもよくある展開である。壁を乗り越える方法として多いのは、仲間やファンの存在ではないだろうか。これらを支えに壁を乗り越えるというのは感動的である。WUG!においても林田藍里や岡本美夕がこれらを支えに壁を乗り越えている。では、彼女らはどのようにしてその壁を乗り越えただろうか。仲間やファンの存在だろうか。それもある。だが、最も大きな支えとなったはアイドルが子供の頃の夢であるという点ではなかっただろうか。彼女らは壁にぶつかり、悩み苦しんでいる時に、どうしてアイドルになりたかったのかを思い出す。先の3人誰をとってもそうであった。そこは徹底しているように感じた。これがアイマスの良さの二つ目であると考えている。正直な話、24話では天海春香がジュピターのライブを見るシーンが描かれると思っていた。そのライブでのジュピターの振る舞いから、彼女は彼女にとっての仲間やファンを見つけ、壁を乗り越えるものだと。だが、実際はそんなシーンは描かれることなく、彼女はアイドルを目指す幼稚園児を見て、彼女はどうしてアイドルを目指したかを思い出し、765プロへと歩みだしたのだ。
この3人の描き方は、アイマスが夢を叶える物語であることを表していると思う。最初の方に、アイドルアニメにおいて、アイドルは「手段」ではなく「目的」であると書いた。その観点からすれば、それは当たり前のことに思える。だが、そのことを主眼に置いて描いたアイドルアニメはあっただろうか。アイドルアニメなのだから、登場人物の夢がアイドルは当たり前。だから、描くべき部分は別のとこにある。そういうものがほとんどではなかろうか。彼女らにとってアイドルは夢である。それがアイマスの核であるからこそ、彼女らは立ち止まる度に原点に帰るのである。
劇場版「THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!」では、少し違っている。アイドルは彼女らの夢ではなくなっているのだ。劇場版では、アイドルは物語になっている。これは劇中の天海春香の科白から分かる。物語終盤で矢吹可奈らと一緒にアリーナに行くシーンがある。彼女はそこで言う。今私がいる場所は今までの全部で出来てるんだと。この科白は印象深かった。TVシリーズとの違いを明確に表しているようにみえるからだ。TVシリーズは夢を叶える物語であった。だが、劇場版は違う。アイドルして歩んでいく物語である。自分の夢であるアイドルとは何なのか。そのことに悩み苦しんでいるのがTVシリーズであった。だが、劇場版ではそうではない。彼女らなりのアイドル像を手に入れているのだ。つまり、劇場版は夢を叶えた後の彼女らの物語なのである。
「selector spread WIXOSS」でふたせ文緒は夢は叶え続けなくてはいけないと言った。叶えて終わりではない。叶えてからが始まりだと。劇場版アイマスは正に夢を叶え続けていく物語だ。だからこそ、天海春香のあの科白なのである。それが〝輝きの向こう側〟なのかもしれない。彼女らはアイドルになるという夢を叶え、新たなステージに旅立とうとしている。そのステージこそが、アイドルとして歩んでいくことだと思う。それはつまり、夢を叶えた後の世界だ。夢を叶え続けていくこと。それは、夢を叶えること以上に難しいことのように思える。彼女らはその道を歩む決意をしたのである。
これは劇場版アイマスアイマスアニメとしての集大成として、非常に高い完成度であることを示している。だが、私は感動を覚えながらも、同時に哀しみを覚えたのである。TVシリーズで描かれていたアイドルが彼女らの夢であるということ。アイマスアニメがこれを徹底して描いていたところに、私は惹かれたのではないだろうか。劇場版で示された輝きの向こう側は、数多のアイドルアニメでも描かれていることではないだろうか。確かに劇場版で描かれたものは、アイマスでなければ描けなかったことは間違いない。だがそれでも、アイマスアニメが数多のアイドルアニメの一つになってしまったことは否めないのではないか。そう感じてしまったから、劇場版アイマスを素直に賞賛できなかった理由かもしれない。私はそう思っている。

WUG! から見るアイドル

WUG!の新作劇場版が作製されることが2014年冬に発表された。たった30秒のトレーラーから私が感じたのは違和感だった。何度も観返して気づいた。トレーラーのWUG!は大人の女性だ。TVシリーズで感じた子供っぽさはなかった。このことに気づいた時、私が思うアイドルとは何なのかが分かった気がする。私はアイドルに詳しくはないので、現実のアイドルがどうなのかは分からないが、2次元アイドルの多くは10代の少女である。アニメで描かれる彼女らは、歳不相応だ。たかが10代のくせに無理し過ぎなのである。10代はまだまだ子供であろう。そもそも、20代前半も子供と言っても差し支えない気がする。だが、2次元アイドルは子供らしいとこを見せず、時に無茶とも取れるような無理をするのだ。背伸びをしているのだ。私はアイドルだから。ファンがいるから。そうやって、彼女らは平気で無理をするのだ。
この背伸びをしている感じこそ、私はアイドルだと思う。その背伸びがあるからこそ、時折見せる10代らしい表情に胸を打たれるのだ。彼女らが壁にぶつかった時、私ははっきりと感じるのである。どんなに凄く見えても、まだ10代の少女なのだと。この瞬間こそ、アイドルアニメである。だから私は、それが良くないことだと思いながらも、もっと無理をしろ、もっと背伸びをしろと思ってしまうのだ。まだまだ10代の少女なのにと、感情移入もしやすくなる。感動的な物語とは、ある種残酷である。
2015年1月24日に放送された「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」にゲスト出演された振付師の竹中夏海さんは、「アイドルにはヒーロー物の三大要素――不思議な出生、怪物退治、財宝獲得がある」と仰っていた。確かに納得できる話である。竹中さんは現実のアイドルについて仰っていたが、2次元アイドルにも同じことが言える考えだ。だが、これはアイドルに限らないことだと思う。流行りもの殆どにこのことは当てはまるだろう。

「ロコドル」というアイドル

2014年夏、「普通の女子高生が【ろこどる】やってみた」が放送された。ろこどるによって、ロコドルという新しいアイドルの形態が広まることとなった。地方アイドルと言えば、前述のWUG!がある。流川ガールズとWUG!、つまりロコドルと地方アイドルの違いは何なのか。それはろこどる最終話で描かれている。流川ガールズはロコドルフェスタを終え、地元の夏祭りで「ああ、流川」を歌った。夏祭りで歌うのは「魚心くんソング」でも良かったように思える。だが、「ああ、流川」を歌ったのである。ろこどるにおいて、「ああ、流川」は重要だ。「ああ、流川」はあくまでも、市の歌だ。その「ああ、流川」を持ち曲として歌えることこそが、ロコドルが地方アイドルと違う点であり、ろこどるの良さでもあるのだ。
流川ガールズは、流川市のアイドル。だからこそ、流川ガールズにとって、流川市が最も大切である。このことは、TVアニメ13話できっちりと描かれている。ラブライブ!における中心が音ノ木坂学院であるように、ろこどるにおける中心は流川市なのだ。それを最も表しているのが、夏祭りで歌った「ああ、流川」なのだ。最初に書いたように、アイドルアニメのアイドルは、「目的」ではなく「手段」。このことから、考えればろこどるはアイドルアニメではない。だが、ロコドルという存在を確立させたという点で、ろこどるは10年代アイドルアニメを語る上では外せないのである。

 

デレマスとアイカツ!

この記事を書き始めてから、「アイドルマスターシンデレラガールズ」の放送が始まった。執筆時点での放送話数は4話である。3話まで観た時点で私はアイカツ!だと思った。恥ずかしい話、私はアイカツ!を3rdシーズンからしか観ていない。なので、アイカツ!っぽいと言っても、3rdシーズンのという枕詞が付くことになるが。
デレマス1話では主人公格である島村卯月、渋谷凛、本田未央が346プロ入りする経緯が描かれ、2話では他のシンデレラプロジェクトのメンバーと3人の位置づけの説明がされた。そして、3話では3人がバックダンサーを通してアイドルの世界に触れる様子が描かれた。アイカツ!らしさを感じたのは、主人公格の3人からだ。彼女たちはアイドルではなく、まだファンなのである。それは2話でも描かれれいるし、3話でもそのことは強く描かれている。彼女たちがアイドルではなくファンであるから、3話はあのようになったのだ。
3話切りが一般的な現在、多くのアニメでは3話で大きな動きがある。奇しくもデレマス放送日の数日前に放送された某アニメも3話で大きな動きがあった。デレマス3話がライブ回であることは、次回予告から分かっていたので、デレマスでも大きな動き、つまりライブで失敗するのではと騒がれていた。だが実際には、そんなことはなく、彼女たちは何の問題もなく踊りきった。それは彼女たちがファンであるからだ。ライブは楽しい。この楽しさをもう一度味わいたい。アイドルになりたい。そういう風に彼女たちが思うために、ライブの成功という演出になったのではないか。私はそう思っている。
アイカツ!の大空あかり、氷上スミレ、新条ひなきの3人もアイドルらしさは薄く、ファンであるほうがしっくりくる。それは114話で印象的に描かれている。114話はクリスマス回であり、大空あかりはクリスマスツリー用として樅の木を切った。1年前のクリスマスでは、彼女が憧れる星宮いちごも同じように樅の木を切っていて、114話での彼女の行為は星宮いちごの真似のなのである。このことは劇中でも描かれており、紅林珠璃の科白から分かる。友だちのために切った星宮いちごに対し、憧れるアイドルの真似事として切った大空あかり。この対比がアイカツ!3rdシーズンであり、3人がまだまだファンにすぎないことを表している。
しかし、117話あたりから流れが変わりつつある。ファンであった彼女たちがアイドルになりかけてきた。これからが楽しみである。彼女たちがどうアイドルになっていくのか。つい期待してしまう。ついこの前放送されたデレマス4話も期待したくなるような話だった。まさに物語が始まるといった感じだった。3話にてアイドルの楽しさを知った3人がどういう風に歩いて行くのか。楽しみにならざるを得ない。

アニメは面白いよ

一番初めにも書いたが、私はアニメを観始めて4年も経っていないのだ。観ていないアニメもまだまだたくさんある。この文章で触れたアニメもまだ1回しか観ておらず、うろ覚えで書いた部分も多々ある。だから、ずれていると感じるところもあるかも知れない。だが、それでもはっきりしてることはアニメは面白いってことだ。こんな駄文をだらだら書いてしまうくらいには面白い。それが伝われば、書いた甲斐があるというものだ。

 

冒頭に、Tumblrに投稿したものを、私なりに気に食わない点を修正したものだと書いた。気に食わない点は幾つかあったが、ろこどるの話が最も気に食わない箇所で、ここを修正したかった。結局、私の実力不足で修正することが出来ず、デレマスの話を加筆しただけになってしまった。

 

過去記事

私的10年代アイドルアニメ論 - tanaca